東京靖国訴訟準備書面1
平成13年(ワ)第26292号 損害賠償等請求事件
原 告 243名
被 告 国 外3名
2002年9月30日
東京地方裁判所 民事第12部合議D係 御中
準備書面1
原告ら訴訟代理人
第1 被告東京都及び被告石原の不誠実・怠慢な訴訟進行は許されない
1 被告東京都及び石原の主張
(1)被告東京都
被告東京都は,その答弁書第3 4において「原告らは,同(7)において「以上のことは,人口1200万人を擁する,特別に巨大な自治体である東京都
の代表として東京都知事が参拝したという本件石原参拝においても,同様に妥当する。」としているが,一体「同様に妥当する」という「以上のこと」というの
が,上記(1)から(6)までのいずれを指すのかがまったく明らかでない」などとして認否を拒み,原告らが2002年5月10日付「求釈明に対する回答」
によって原告らの主張を再度極めて明確に主張したにもかかわらず,2002年7月9日付準備書面(1)において「「(4)戦没者追悼の形」について @に
ついては,釈明が不十分であり,認否出来ない。被告小泉を被告石原と読み替えるといかなる事実主張となるのか不正確で理解に苦しむ」「「(5)宗教行為該
当性について」引用にかかる判例の存在は認める。その余は原告らの釈明が不十分であるので,認否出来ない。原告らは,被告小泉に対する主張とは区別して,
被告石原の本件参拝行為の「宗教行為該当性」を明確に主張すべきである」「(被告石原の行為が宗教的活動に該当しない:原告ら代理人註)理由の詳細は,原
告らから,被告石原の本件参拝行為の「宗教行為該当性」について,被告小泉に対する主張と区別した明確な主張がなされるのを待って主張することとする」な
どと述べて相変わらず明確な認否及び主張を行おうとしない。
(2)被告石原
被告石原は,その答弁書において「同「4」の「(3)靖国神社への強いこだわり」ないし「(6)」は認否しない。同「4」の「(7)」は,「同様に妥
当する」との趣旨が不明なため認否できない」などとして認否を拒み,原告らが2002年5月10日付「求釈明に対する回答」によって原告らの主張を再度極
めて明確に主張したにもかかわらず,2002年7月9日付準備書面(1)において「原告らは請求の原因「4」の「(7)」において,以上のことは・・・本
件石原参拝にも妥当する。」と述べるが,どの部分がいかなる意味において,妥当するのか,明らかではない。」などと述べて相変わらず明確な認否及び主張を
行おうとしない。
2 認否拒否と期日の空転は許されない
しかしながら,原告らが提出した2002年5月10日付「求釈明に対する回答を検討すれば,被告石原の本件参拝行為の違憲性は極めて明瞭であり,認否も十分に可能である(この点については詳述する)。
原告らが訴訟の進行の観点から誠実に対応しているにもかかわらず,被告東京都及び被告石原は,上述のとおり2回にわたって実質的に認否を行わないまま期日を空転させ,結果として訴訟遅延を招いている。
原告らは,被告東京都及び被告石原に対し,速やかに認否を行い訴訟を進行させるよう,強く求めるものである。
第2 原告らの主張の整理
1 原告らの釈明
2002年5月10日付「求釈明に対する回答」は,被告石原及び被告東京都の 求釈明に対し,次のように釈明した。
「第2 被告東京都からの求釈明について(求釈明 答弁書 第3 4 の部分に関して)
被告石原にも同様に妥当する事実は,訴状請求の原因4(1)ないし(6)のうち,被告小泉に特有な事情を除外した部分である。
被告小泉に特有な事情を除けば,被告小泉の本件参拝を被告石原の参拝と読替えて全てが妥当する。
被告小泉に特有な事情とは訴状請求の原因4のうち,以下の部分である。
(3)。但し,被告石原が国の内外の批判がある中であえて都知事として本件参拝を行ったことは靖国神社への強いこだわりがあるという点で同様である。
(4)@中「戦没者追悼式」に「被告小泉が国を代表してこれに出席」したこと
(5)第1段落中,被告小泉が本件参拝日を2日間前倒しにしたこと
2 釈明の読み方
(1)なぜ本項を主張するか
かかる釈明に対し,被告石原及び被告東京都は,上述のように釈明が不十分であり理解できない旨の主張をする。
被告石原及び被告東京都が理解不能であるとする最大の理由が,原告らが被告小泉の行為を被告石原と読み替える部分であるようなので,この点について整理する。
(2)読替の一例
確かに,2002年5月10日付「求釈明に対する回答」は被告小泉を被告石原と読み替えると全てが妥当する旨のみ記載している。
しかしながら,釈明の趣旨は,被告国における被告小泉の役割について被告石原の被告東京都における役割と読み替えると全て妥当するということである
から,単に被告小泉を被告石原と置き換えるだけではなく,その地位などについても被告小泉に関わる部分を被告石原に関わる部分に置き換えることとなるのは
当然のことである。
例えば,
「玉串料支出との比較からすれば,国民と世界が注視している中で,被告小泉が内閣総理大臣として靖国神社参拝を行った本件ではなおのこと,被告国が靖国神社との間にのみ,特別のかかわり合いをもったことを否定することが出来ない」
という部分(訴状8頁)は,
「玉串料支出との比較からすれば,国民及び都民と世界が注視している中で,被告石原が東京都知事として靖国神社参拝を行った本件ではなおのこと,被告東京都が靖国神社との間にのみ,特別のかかわり合いをもったことを否定することが出来ない」
という文章として理解できるということである。
(3)読み替えた文章の全文
被告石原及び被告東京都が認否出来ない原因が,単に被告小泉を被告石原と置き換えただけが原因である場合を考慮し,蛇足ではあるが,上記の趣旨で被
告小泉を被告石原と読み替えた文章(被告小泉に特有な事情を除外した)を以下に記載する。記載範囲は,被告石原及び被告東京都が認否不能とする訴状
4(4)から同4(6)までである。
(4) 戦没者追悼の形
@東京都主催の戦没者追悼式が毎年実施されており,被告石原も東京都知事としてこれに出席したように(石原が靖国を参拝する直前の慰霊式典の詳細につき調
査する必要がある),戦没者等を追悼することは,宗教行為によることなく可能である。にもかかわらず,屋上屋を架すかのように,あえて東京都知事としての
靖国神社参拝という形を加えなければならない理由は何もない。
追悼行為というものは,宗教に関わりなくすることが可能であり,まして,これをする形が東京都知事としての靖国神社参拝以外にありえないというものではない。
A愛媛玉串料違憲訴訟に関する最高裁大法廷判決(平成4年(行ツ)第156号 損害賠償代位請求事件 1997年4月2日)は,まさにこのことを,次のとおり明確に指摘している。
「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は,本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられる。」
(5) 宗教的活動該当性
戦没者等の追悼,あるいは「戦没者に敬意と感謝をささげる」こと,さらにまた「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体」は,「特定の宗教と特別のか
かわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができる」(前掲愛媛玉串料最高裁大法廷判決)にもかかわらず,被告石原は,終戦記念日に靖国神社に被告東京
都を代表する東京都知事として参拝することに強くこだわり,本件石原参拝を行った。
ところで,このような靖国神社への特別のこだわり,ないしかかわり合いをどう評価するかに関連して,前掲の愛媛玉串料最高裁大法廷判決は,次のように判示している。
(愛媛県知事が靖国神社の例大祭,慰霊大祭に際し,毎年玉串料を支出してきたという)「本件においては,県が特定の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して
同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって,県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができな
い。これらのことからすれば,地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは,一般人に対して,県が当該特定
の宗教団体を特別に支援しており,それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え,特定の宗教への関心を呼び起こすものといわ
ざるを得ない。」
この愛媛玉串料最高裁大法廷判決は,玉串料の支出という現場に出向かない行為ですら,県が靖国神社との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない,と断定しているのである。
玉串料支出との比較からすれば,国民及び都民と世界が注視している中で,被告石原が東京都知事として靖国神社参拝を行った本件ではなおのこと,被告東京都が靖国神社との間にのみ,きわめて意識的に,特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。
同大法廷判決は続けて,県が特定の宗教団体である靖国神社に対してのみ,本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは,一般人に対して,県が靖国神
社を特別に支援しており,靖国神社が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え,靖国神社という特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざ
るを得ないと判断している。
玉串料の支出ですらそうであるなら,被告石原が被告東京都を代表して東京都知事として靖国神社に本件参拝をするという形で特別のかかわり合いを持つこと
は,一般人に対して,被告東京都が靖国神社を特別に支援しており,靖国神社が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え,靖国神社という特定
の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。
以上の事情から判断すれば,被告石原が被告東京都を代表して東京都知事として靖国神社に本件石原参拝をしたことは,愛媛玉串料最高裁大法廷判決が県の玉
串料支出を宗教的活動と判断したよりさらに明確に,その目的が宗教的意義を持つことを免れず,その効果が特定の宗教に対する援助,助長,促進になると認め
るべきであり,これによってもたらされる被告東京都と靖国神社のかかわり合いがわが国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであっ
て,憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たる。
(6) よって,被告石原が被告東京都の知事としてした本件石原参拝は,明確に違憲である。
(4)小括
以上の文章について,被告石原及び被告東京都は明確な認否を行うべきである。
仮に,認否出来ないのであれば,どの部分についていかなる理由から認否が出来ないのかを明らかにすべきである。
ちなみに,上記の趣旨で被告小泉を被告石原と読み替える以前の文章につき,被告国および被告小泉は認否を行っているのであるから,被告石原及び被告東京都が認否不能ということは考えられない。
第3 補足的な事実
以上で認否を行うには十分であるが,さらに加えて,被告石原及び被告東京都に関わる事実として,以下の点を主張する。
1 石原の靖国神社への強いこだわり
石原は,後記のように,靖国神社に強いこだわりを有している。自己の思想の発現として,それが憲法に抵触することを自覚しながら,あえて都知事としての靖国神社参拝を行っているのである。
(1)靖国神社に対する石原の思想
石原が,靖国神社について,いかなる位置づけを与えているものであるかは,彼自身が著した文章から読み取ることができる。
石原は,PHPが出版するPHP研究所編・『検証・靖国問題とは何か』所収「永遠なる時間の輪の中で」という文章を寄せている。この中で石原は靖国神
社について,靖国は日本人のDNAなのであるという自説を展開している。すなわち,「靖国の性格が宗教でしかないというのは,日本における神道の意味合い
を理解せぬ論でしかない。日本に普遍しているアニミズムこそが神道の本質であって,その汎神論はいろいろな物事,事象に対する人間としての畏敬の念を表象
しているのであり,この風土とあいまって日本独特の融通無碍な価値観を生み出してきた。(中略)その限りにおいて神道的汎神論は,今現在個々人がそれぞれ
いかなる宗教を奉じていようと,その生活,その情操の根底を決定的に規定しているいわば国家民族のDNAであって,それを否定してかかるのは個々人の自由
だが,その自由の故に,自らの属する国家民族の本質を否定し尽くせるものでありはしない。だから反対の人々は,参拝を行う者を黙殺すればよい。ことさら外
国の立場まで斟酌してその行為を否定してかかろうというのは,実は自分に唾するようなものでしかないと思います。」(前掲書13頁ないし14頁)。
だから,このような神道崇拝思想家である石原にとっては,「参拝はことさらなことではなく,褒められることでもありません。」(前掲書29頁)。だか
ら,石原は,本件で問題になって以降である今年についても,靖国神社に参拝する点についてゆるぎはない。本年6月18日の都議会においても,本年8月15
日の参拝について質問され,「どこかやじがありますが」,「今年の8月15日にも靖国はお参りさせていただきます。」(都議会議事録より)と答弁し,現に
参拝した。
また,石原氏は,被告小泉が靖国神社に参拝するか否かについて去就が注目されている時期に,毎日新聞のインタビューに答えて,「生命を賭して寄与した同
胞に対して敬意は当然払うべきものであり,そのシンボルとして靖国があるわけですよ。」と靖国の位置づけを答え,石原氏が首相なら参拝するかの質問に対し
て「当然行きますね。」と答え,「小泉首相には,どんなアドバイスを」するかとの質問に対しては,「(アドバイスを)しません。」と言いつつ,「日本人の
精神性,文化のコアにあるDNAに触れてくる問題なんでね。彼(被告小泉のこと:原告ら訴訟代理人注)がそういう行動(参拝)で表現しようと思っているの
を,誰が阻害できるんですか。」と答えて小泉にエールをおくっている(2001年8月12日付毎日新聞より)。石原氏は,7月31日にも,小泉の参拝につ
いて,「堂々と,黙々と行けばいい。これは日本の文化の問題。反対があれば黙殺すればいい。」と述べている(2001年8月1日付毎日新聞)。
(2)公式参拝であることは石原自身の自白するところである
石原氏が都知事として参拝していることは,石原自身の自白するところである。
まず,石原氏は,参拝における記帳で,「東京都知事 石原慎太郎」と記帳している。
2001年の参拝後には,「公式参拝か。」との記者の質問に答えて,「そういうくだらんことは聞かないの!」「当たり前だろう。都庁から来たのだか
ら。」と答えている。都庁から来たのだから当たり前だという発言は,当然に都知事として参拝したと回答と内容的には同じである。私人が私的に参拝したのな
ら,都庁から来たのだから当たり前だという発言は意味が通じないから,このように理解するほかない。
また,石原自身,はっきりと公式参拝であることを明言してもいる。石原氏はその著作の中で,本件の靖国神社参拝について,「私が8月15日に東京都知
事として参拝した」と述べている(28頁。この文章は,雑誌『正論』平成13年10月号に掲載されたもので,ここでいう8月15日とは,2001年8月
15日のことである。)。
(3)「宗教的活動」性について石原は認識している
石原は,都知事として参拝することが,憲法20条3項の禁止する「宗教的活動」に該当することをはっきり認識している。にもかかわらず,都知事として
参拝を行う石原の姿勢は,取りも直さず,都知事が平気で憲法を破壊していることを意味し,日本国憲法下で絶対にあってはならないことが,信じられないこと
ではあるが,現実に起きているということを意味する。
石原が,憲法違反であることを認識していることは前掲書を読めばわかる。
石原は,前掲書11頁において,靖国に関する論点として,「信教の自由と政教分離の原則をうたっている憲法との兼ね合いということになります。」と憲
法との抵触が問題になることを自覚している旨発言している。そして,この宗教との関わりに触れて,靖国神社には死者が祭ってあるので「こうした死者との
我々との関わりは,現実を超えた,いわば観念におけるものである限り,必然的に宗教の様相を帯びてくる。それを国家的行為としての普遍性あるものにするた
めに,できる限り宗教色を省こうとする意向も当然あり得よう。」と政教分離原則にのっとる見解を理解していることを示している。その上で,(1)で紹介し
た靖国DNA論を展開して,靖国は,宗教性だけでは語れない,日本人にとってDNAのようなもので,参拝を否定してかかるのは自己に唾するようなものだ,
と述べるのである。
しかし,少しでも憲法を勉強した人間であれば,このような見解が違憲性を免れるものではないことはすぐに理解できる。なぜなら,石原の見解は,明治時
代から終戦までの国家神道が現人神である天皇崇拝思想であって,まぎれもなく宗教としての本質を持つものであるにもかかわらず,当時の政府によって「神道
は宗教にあらず」として,大日本帝国憲法下で政教分離原則と抵触しないと宣伝されたこと,そのような考え方は,日本国憲法下では明確に排斥され,むしろそ
のような考え方を排斥するために憲法20条3項が制定されたことは憲法の基礎中の基礎である。そして,石原の思想は「神道は宗教にあらず」との考え方を焼
き直した変形版にすぎないことは,少し考えれば容易に理解できるからである。
石原氏は,このような憲法の考え方を知らないのであろうか。否,知らないはずはない。憲法遵守義務(憲法99条)を課せられた都知事は,憲法の基礎を
知らない人間が務めることはできない。石原が知らないはずはないのである。石原は,このような考え方を知りながら,あえて自己の行為を正当化する自説を述
べて,違憲性がないかのように装っているのである。
2 小括
以上の検討から,石原が自己の都知事としての靖国神社参拝が憲法の禁止する宗教的活動に該当することを理解していることは明白である。
第4 訴えの分離はすべきでないこと
1
被告国は2002年7月2日付第1準備書面(5ページないし7ページ)において,被告小泉,被告石原のそれぞれの参拝行為が民法719条1項前段の要件を
満たさないため共同不法行為は成立せず,そのため共同訴訟の要件(民事訴訟法38条前段)を欠くので,本訴訟から被告東京都及び被告石原に対する訴えを分
離すべきとする。
しかし,そのような主張は認められない。以下その理由を述べる。
2 共同不法行為が成立すること(719条1項前段)
(1)719条1項前段「共同シテ」といえるためには主観的な関連共同は必要なく客観的な関連共同があれば足りる(大判大正2年4月26日判決,大判大正
3年10月29日判決に同旨)。被告国が2002年7月2日付第1準備書面で引用した最高裁昭和43年4月23日第3小法廷判決もその趣旨である。
また,通説も被害者救済の視点から客観的な関連共同で足りるとしている
(注釈民法(19)325ページないし326ページ)。
そして,本件小泉参拝及び本件石原参拝は客観的関連共同が認められることすでに原告求釈明回答書において述べたとおりである。
(2)時期的近接性
さらに客観的な関連共同が認められる理由を補充する。
まず,時期的な近接性については被告小泉の本件参拝は8月13日であり,石原の本件参拝は8月の15日である。
被告小泉も,被告石原も敗戦の日である8月15日に靖国神社に公式参拝することに意味づけをおき,8月15日に参拝すべく努力をした。また,被告石
原は2001年7月31日に,被告小泉の参拝について「堂々と行けばいい。これは日本の文化の問題。反対があれば黙殺すればいい」等とエールを送るなどし
た。しかし,中国等の日本が侵略行為を行った国からの反発が多かったことから,被告小泉は本件参拝を15日にではなく13日に前倒ししたのである。
従って,被告小泉の本件参拝と被告石原の本件参拝は13日と15日と同じ日に行われなかったが,単に時期的近接性があるだけではなく,両人とも敗戦記念日にこだわり続け,8月15日に近接した日に参拝を行ったことからも客観的な関連共同が認められる。
(3)次に,被告小泉及び被告石原の本件両参拝は,様式においても共通している。
すなわち,本件小泉参拝及び本件石原参拝はそれぞれお祓いを受けた後で靖国神社本殿に昇殿し,戦没者の霊を祀った祭壇に黙祷した後,深く一礼を行うという様式で行われた。
被告小泉は本件小泉参拝を私的なものであることを明確にしたことは一度もなく,かえって靖国神社への往復について公用車を用いる等公務として行動し
た。また,靖国神社拝殿において「内閣総理大臣小泉純一郎」と自己の公人としての肩書きをつけて記帳した。一方被告石原は東京都知事として参拝し,「東京
都知事石原慎太郎」と自己の公人としての肩書きをつけて記帳をした。
以上のように,本件両参拝は様式においても共通している。
(4)以上より本件両参拝は719条第1項前段の共同不法行為に該当する。
3 民事訴訟法38条前段該当性
そして,被告小泉と被告石原のそれぞれの参拝行為について共同不法行為が成立するのであるから,原告求釈明回答書ですでに述べたとおり共同訴訟の要件を満たす。(民事訴訟法38条)
従って,共同訴訟の要件を満たさないという被告国の反論は当たらない。
4 分離による訴訟不経済
実質的に考えても以下の理由から分離に全く実益はない。
本訴訟において靖国の歴史,原告の侵害された権利の共通性など共通するところが多い。
また,被告小泉及び被告石原の不法行為,違憲行為は公人の公的な靖国参拝という点で共通する。
また,前述のように小泉の本件参拝,石原の本件参拝は8月15日の敗戦記念日に参拝をしようという意図があったものの,被告小泉が諸外国との関係等
から別の近接する日に参拝したに過ぎず,8月15日の敗戦記念日に参拝しようという意図は同じである。また別の日とはいっても時期的にも2日しか離れてい
ない。このようにそれぞれの本件参拝行為は時期的にも近接する。
また,前述のように本件小泉参拝,本件石原参拝は様式においても共通するところが多い。すなわち本件小泉参拝及び本件石原参拝はそれぞれ靖国神社本
殿に昇殿し,戦没者の霊を祀った祭壇に黙祷した後,深く一礼を行うという様式で行われ,被告小泉は本件小泉参拝を私的なものであることを明確にしたことは
一度もなく,かえって靖国神社への往復について公用車を用いる等公務として行動した。また,靖国神社拝殿において「内閣総理大臣小泉純一郎」と自己の公人
としての肩書きをつけて記帳した。一方被告石原は東京都知事として参拝し,「東京都知事石原慎太郎」と自己の公人としての肩書きをつけて記帳をした。
また,本準備書面でも述べているように,訴額等の問題も共通する。
以上のように,靖国の歴史・原告の侵害された権利の共通性,被告小泉及び被告石原の本件参拝行為の不法行為成立の正否,違憲確認については論点が共通し,主張・立証活動も共通する。
このように,論点,主張・立証活動が共通するのであるから,訴えを分離することには全く実益はない。
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